〒700-0924
 岡山市北区大元1丁目1番29号

電話応対時間 平日 9:00~17:00

トピックス TOPICS

2011年2月14日

雪の降る日に・・・

1月の雪のちらつく寒い日、ひとりの患者さんが亡くなりました。 Yさんは癌で10数年あまり闘病してこられた、50歳代の女性でした。
初めて診療に自宅へ伺ったのが1ヶ月少し前のこと。もう何も治療できることがないなら最後は病院でなくて家で死にたい、とはっきり覚悟を言われて、何とか力になれたら、と思ったものでした。
1月4日に、3回目の診療に伺ったとき、「まだ長くかかりそうですか?」と尋ねられました。

・・・何が長く? 

「お迎えが来るまでにはまだ時間がかかりますか?」

・・・なぜそう思うのですか?

「もう生きていても仕方がないような気がして・・・早く死んだら楽になるかなと思って・・・」と涙ぐまれていました。

今日は少し気分が沈んでおられるなと感じましたがその場から逃げるわけにはいきません。どう言ってあげたらよいのか・・・昨年見学に行って教えを受けた小澤竹俊先生の、「苦しみをわかってくれる人がいると嬉しい」という言葉を思い出しながらひととき話していました。洗濯物をたたんだり、帰省してきた息子さんのために調理したりしているときはそんなこと(ネガティブな気持ち)も忘れていたと言われていました。何か作るとか、できることをやってみたらどうでしょう?(黒澤明の映画「生きる」が頭の片隅に浮かんだ)

部屋にあった作りかけのパッチワークが目にとまり、その話を聞きました。

「これが完成したらもうすることもなくなって自分は終わりだと思っていたんです。そうですね、できあがったら次を作ればいいんですね」

この日はナースMEGUMIが休みだったので私一人で診療に回っていたのですが、彼女がいれば少しは雰囲気も和むのになぁ・・・などと気の利いたことも言えない歯がゆさを感じたのを覚えています。それでもその次に訪問したときには、たくさんのパッチワークの材料が用意されて次の作品にとりかかっているようで、少し元気になられたことを感じました。 オピオイド(麻薬)を使って苦痛をとりながらずっと自宅で過ごして療養されていましたが、1週間前から急に状態が悪化して、特に呼吸苦感を訴えるようになりました。

その日の朝、呼吸の状態が変わったということで往診依頼があり、診療予定を調整して朝一番に訪問しました。傍目には息苦しそうな頻呼吸でしたが、息苦しいか?という御主人の問いには首を横に振って答えられていたのが救いでした。時々娘さんが差し出す水をストローで飲みながら荒い息の中で、御主人、娘さん、そして集まったお母さん、お姉さんに、「ありがとう」「幸せだった」と何度も繰り返して言われました。

「もう頑張らない・・・」

「そんなこと言わずに○○(息子さん)が帰るまで頑張れ!」

娘さんと御主人に、これから起こって来るであろう体の状態の変化について説明し、Yさんの手を握って「また来ます」と言って、気になりながらも次の訪問先へと向かいました。亡くなられたという連絡を受けたのは夕方5時過ぎてでした。最期は御主人、娘さん、息子さん、お姉さん、お母さんに看取られてリビングのベッドの上で亡くなられました。死亡確認に伺ったときには亡くなって1時間ほど経っていたこともあって、涙ながらにも皆さん落ち着いておられました。亡くなったYさんのベッドを囲むようにしてみんなが座るなか、最後の様子を伺いました。

朝に私が去った後も午前中は家族皆さんとよく話していたそうです。東京から息子さんが来るまでは頑張っていたのでしょう。息子さんの顔を見たら安心したのか、ほとんど言葉がでなくなって、意識レベルが低下していったようでした。「もう一回先生に会えるかな・・・」と言われていたと聞いたとき、意識のある間にもう一度行ってあげられたら良かったなぁと後悔の念に駆られました。そのあとお母さんが「この子は何でも一生懸命やる子だったから・・・」と言われたのをきっかけに、息子さんや娘さんの居る中、御主人から、苦学生だった大学時代のアルバイト先でYさんと知り合ったこと、つきあっていた頃から35年になること、など馴れ初めを話され「あの頃が一番苦しかったかなぁ・・・」 なかなか仕事も定まらず、東京では生活できなくて生活基盤もないままに岡山に帰ってきたこと、二人目の子供(息子さん)が生まれてからYさんのお母さんに面倒をみてもらいながらYさんが介護士の資格を取って働いたこと、など思い出話が御主人とお母さんの口から続きました。ナースMEGUMIが聞き役になっていろいろと話を引き出してくれました。

Yさんのお母さん
「東京にいるとき新宿でデートしたとか言っていたんですよ」 「デパートに行くのが好きでしたねぇ。」
御主人
「そうだったな。あれー、またなんか買ってきてるわ、とかしょっちゅう言うとったな」
娘さん
「先月も天満屋に行って、お父さんの誕生日が2月なのに早々とプレゼントのセーターを買ってきていたんです。きのう『あれ出して』というので出してきて、少し早いけど、といって着てもらったんです。今父が着ているのがそうなんですけど、着たのをみて『うん、似合う』って言って・・・」 

パッチワークのことを思い出して尋ねてみると、「○○(息子さん)のために、大きなベッドカバーくらいのを作ったんですよ。一生懸命つくっていて、あれが完成したから気が抜けたのかもしれない・・・」 とお姉さん。

思い出しては涙を流されていますが、あのときはああだったよなぁ・・・という家族の思い出の語らいの中にはやはり笑いがありました。亡くなった患者さんの横たわるベッドを囲んで交わされる御家族の昔の思い出や最近の出来事の話を聞きながら、食卓のテーブルを借りて死亡診断書を書いたのでした。

最後に「皆さんでしっかりとおくってあげて下さい」と挨拶して帰るとき、玄関先まで送ってくれた娘さんが「先生のことはよく話をきいてくれて好きだと言っていました。本当にありがとうございました」と涙ながらに言って下さいました。悲しいことではありますが、家族の皆さんに温かく囲まれてのYさんの旅立ちでした。

—–
COMMENT: 《最後の時を待つ》ってどんな感じなんだろう……
その時が来までの時間を《どう生きるか》って……
口では簡単にいえて頭ではわかっているような…
自分がもしそうなったとき、ちゃんと向き合えるのかなぁって思います。
でも、家族には思い出してほしいですね。できれば辛いことではなく、笑顔になれるような思いで。
そんな時間が過ごせるといいな。Yさん、Yさんご家族にとってのその時間のなかで、主治医の先生が話をよく聞いてくれる先生だったことは、きっと笑顔になれる思い出のひとつになっていますね。