7月12日の続きです。新聞の投書欄に、「長生きの意義を考えるとき」という投書記事を見かけました。
(記事の内容は7月12日参照)自分の死に場所と時を自分の意思で決めて亡くなった御主人のことを奥さんが書かれたものです。
何となく気になってとっておいたのですがその数日後、同じような患者さんの診療に行くことになりました。Sさんは、町中のビルの3階に奥さんと暮らしていた80代半ばの男性。グルメで肉を食べるのが大好きで2,30年前に通風になり、まもなく糖尿病も指摘され、5年ほど前には糖尿病性腎症を合併。今年になって複数の病院で透析を勧められ、再三にわたって家族に説得されたものの耳を貸さず拒否。その後尿毒症のため家で譫妄を起こしたりして介護に家族が疲弊してしまい、仕方なく年末からショートステイをつなぎつなぎ施設で過ごしていたということでした。
尿量が減りいよいよ病状が悪化したので施設ではもう看きれないという事情と本人の家へ帰りたいという強い希望で自宅に帰って来られたのでした。娘さんによれば家に帰れると決まったとき、「おお…やっと帰れるんか…」といって涙を流して喜んだということです。初めて自宅に伺ったのは金曜の晩。その日から診療に伺いました。
前日からほとんど尿が出ていませんでした。BUNは177もあり、カリウムも7を超えていつ亡くなってもおかしくないような状況でした。「エラい(しんどい)」「痒ぃい」と訴える以外はほとんど無口で、窓の方を向いてベッドの上にコロンと横になり、町なかの古い雑居ビル3階にある自宅の窓の外の、何十年見続けてきたであろう景色をじっと眺めているだけでした。奥さんが言うには「車が好きじゃから、夜になって寝られんときは、あそこの交差点を通る車のライトの明かりが流れて動くのをじーっと眺めよんです。」と。週末の土日は続けて様子を見に訪問し、利尿剤入りの少量の点滴を行いましたがやはり全く反応なし。バイタルも安定していて変わりないので月曜からは特別訪問看護指示にして、訪問看護ステーションの看護師さんと交代で訪問することにしました。 部屋には昔、満州開拓団にいた頃に友達と3人で撮ったモノクロの写真や、アメリカのポリスみたいな服を着てハーレーの傍に立つ写真が飾ってあります。80歳になるまでハーレーに乗っていて、NHKの記者がテレビの取材に来たこともあったそうです。クラシックカーやオートバイの真鍮製の置物が飾り棚に並び、なかなか良い趣味をもたれていたことが伺われました。
4日ほどはステロイド入りの点滴を行い食欲増進と全身の皮膚掻痒・倦怠感の軽減を図りましたが、尿が出ないのでそれもやめて自然な形で看ることにしました。 イチゴやスイカなどの果物や、時にはホルモンうどんを食べたり、息子さんや娘さんが入れ替わりに訪れて、欲しいといって買ってこさせたにぎり寿司や、夜中にラーメンが欲しいといってインスタントを作ってもらって口にしたり、と思うままに時間を過ごされていたようです。
クレメジン(腎不全の症状を軽減する吸着剤)のカプセルは飲んでくれなかったのですが、リンデロンだけは飲んでくれていました。それでも皮膚の乾燥と痒みが相当あるようだったので強力レスタミンコーチゾンやヒルドイドなどの軟膏類をいろいろと使い、症状軽減に努めました。 ある日訪問すると綺麗にバリカンで坊主頭に散髪してあることに気付き、奥さんに聞くと前夜にお孫さんが来たとき散髪してくれたのだということでした。家族や知り合いが入れ替わり立ち替わりやってきて具合はどうかと聞いたり散髪や世話をしたり本人の好きなものを何か買ってきたり、といつもの生活の延長上に療養生活がありました。 よほど皮膚の痒みが強かったのでしょう、時々「おーぇ」といって、奥さんに背中を掻くことを要求する以外は こちらからの問いかけにもただ頷いたり首を振ったりするだけのSさんでしたが、二人の時はやはり無理をいったりして奥さんを困らせたり喧嘩したりしていたみたいでした。それも日常の姿なのでしょう。 そんな日々が10日も過ぎて、夜通しついて世話している奥さんや娘さんの疲労が極致に達し、奥さんが介護疲れの愚痴を私たちにこぼしていたその翌日、Sさんは亡くなりました。まるで奥さんや娘さんの介護疲れに、「もういいよ」とでも言うかのようなタイミングでした。夕方に奥さんが「もう6時がきたからそろそろ御飯にしような」といってベッド脇から離れ、台所に行ってしばらくして、気がついてみたら呼吸が止まっていたということです。
死亡確認したあと私が死亡診断書を台所のテーブルで書いている間、当院と訪問看護ステーションの看護師2名で体を拭いたりして死後の処置を行いました。Sさんが透析を受けることの意味をどれだけ理解されていたのかわかりませんが、自分の生き方を自分で決め、機械によって生かされるだけの余命を拒否してとにかく帰るといって自宅に帰ってこられたという「自己決定権の行使」は、偉いと思います。 治療できる状態にあるのなら別ですが、単に時間を過ごして療養するだけのために病院にじっと居るのは耐えられない…病気になってしんどくて辛い時こそ、家に帰りたい。安心できる空間で、思いのままに過ごしたい。家族に支えてもらいたい。そう思って家に帰りたいと願う人は、何も特別なことを望んでいるわけではないはずです。そんな中、見守ってくれる家族が居て念願かなって自宅に帰れたSさんは、幸せな最期の時間を過ごせたのかもしれません。特別なわがままでも何でもない、自分の死に場所は自分で決めたいという当たり前のわがままを実現させてあげられる、そんなお手伝いができてよかったと思います。
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COMMENT:雲南ナース こんばんわいつもの生活の延長上の療養生活…家に帰りたい…っていうそれを実現するお手伝いですね…私も最近出会った方に同じような感じの最期をご家族と過ごされた方がいらっしゃいました。その方も大好きなお寿司を食べ、ご近所さんやご親族さんとぎりぎりまで会話をし旅立たれました。お悔やみ訪問した際、お嫁さんが“おじいさんらしい、おじいさんらしく”という事を再々言っておられました。すごく悩んだ事例でしたが、きっといい時間を過ごされたんですよね。なんだか同じような方のお話をこうして聞かせてもらうことがで、改めて振り返ることができます。これからもお願いしますね。
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COMMENT: みー そういうのをうちでも目指したいです。自分で選択できる・・・最低限で最大の尊厳だと思います。だからこそ難しいのかも。なんとなく、なにか治療をしなければならない、みたいな暗黙の了解がありますよね。それに逆らうと、直接的には言われないまでも、「あの患者は問題児だ」みたいな。意識の奥底にある、本当にその人が望むことを引き出し、支える医療が提供したいです。そんな、キャンサーセンターであってもいいと思います。
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COMMENT: しんちゃん 「自己決定権の行使」は、偉いと思います。本当にそうですね。Sさんの自己決定権をサポートしてあげた家族も、本当に立派だと思います。
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COMMENT: AUTHOR: まっちゃん 医療者は、つい医学的な問題を第一に考える傾向にあるけど、ヒトって、臓器の集合体じゃないですね。どんなに実力があるひとも、気持ちの変化で、その1/10も発揮できない時もある。不確かな『想い』は、切っても切り離せないですね。その『想い』を高めるのは、その人が生きた人生の中にあるもの、たとえば『家族』とか『仕事』とか。しかし、いざ在宅へのシフトとなると、身体的な問題と、サポート力と、現実的な問題に直面し、『想い』だけでは、つき進めないときがあります。調整者は、その全体像を把握し、『想い』を遂げるために、どんな医療・サポート・覚悟が必要か、落としどころを見極めないといけないんだなぁと、実感します。『死に様』も含めた、その人の生き様は、その過程の末にある結果であって、その事実に『良かったのか悪かったのか』意味付けする必要はないし、それもひっくるめて、在宅をサポートしてくれている人がいることも、知りました。うまく言えませんが、目からうろこの日々です。
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COMMENT: パウルママ 7月17日から24日まで たった1週間でしたが、母が大変お世話になりまして ありがとうございました。早一週間 もう一週間 離れているせいか いまだに実感がありません。でもデジカメの画像を整理していると 事実なんですね。携帯電話に残っている留守電の声を聴きながら最期の一週間、四国高松に離れていて認知症の義母がいるので不可能と思っていたのに、ほとんど側に居れて看病できたので納得はしています。それにしても7月に入ってから急激に悪化して、まるで父が肺炎入院から退院して戻ってくるのを待っていたようでした。私たち子供達にとって自慢の両親です。母は不安からホスピスを希望していましたが、先生がいつでも往診してくださると判ると安心して自宅に居ました。家族にとってもいつでも側に居れるという安心感。そして先生と看護師さんの暖かい対応に心強かったです。心から感謝しています。そして、だいたいの余命を教えてくださったので離れている息子達も間に合いました。そして 土曜日の朝旅立って、遠くからお参りにきても支障がないよう日曜日に葬儀ができて。母はみんなの事を考えてくれてるって話したんです。父がすぐ後を追わないかと心配なんですが、少し母を休ませてあげてと。もう少し親孝行させてと。孫達のためにももう少し元気でいてとお願いしています。そして将来 父の時もぜひ先生にお願いいたします。先生と看護師さん時間に関係なく走り回って お忙しくされているにもかかわらずいつも笑顔で本当に素敵です。どうぞお身体を大事になさってください。御礼が遅くなりまして申し訳ありませんでした。本当に、本当に、ありがとうございました。
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COMMENT:ももたろ 雲南ナースさん、>>その方も大好きなお寿司を食べ、ご近所さんやご親族さんとぎりぎりまで会話をし旅立たれました。>>いいですね。本当に最後に良い時間を持つことができたのではないでしょうか。こういった時間を持つことができるようにお手伝いするのが自分たちの役目の1つかな、と最近思います。
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COMMENT: ももたろ みーさん、>>なんとなく、なにか治療をしなければならない、みたいな暗黙の了解がありますよね。それに逆らうと、直接的には言われないまでも、「あの患者は問題児だ」みたいな。>>これ、僕もがんセンター時代に感じてました。「治療拒否」みたいな・・・・でもそれって、医者があまり提示しない「何もしない」という選択肢を患者さんが自分で作って自分で選んだだけのことなんですよね。そして期待をもって治療を受けてきた患者さんに治療できることがなくなってはじめてBest Supportive Careの名のもとに「何もしない」選択肢が提示されるから、提示された方はサジを投げられたと思って嘆く・・・何かもうちょっとやり方があるように思えます。
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COMMENT:ももたろ パウルママさん、書き込みありがとうございました。 最初に伺った日に、自分がしんどいであろうのに我々のことまで気遣いをみせられる様子に、お母様の人柄がすぐにわかりました。最後まで皆さんのことを気遣って旅立たれたのだと私も思います。キッチンのテーブルで死亡診断書を書いていて、すぐ横にあった白いアルバム帳に目がとまりしばらく拝見していました。海外旅行先でお父さんと一緒に写っている10年ほど前の写真など見ながら、家族の皆さんに囲まれてこれまで良い人生を送ってこられたのだなぁと思いながら眺めていました。お母様の人生の中の最後の1週間だけ関わらせていただきましたが、温かくて賑やかな御家族親族の皆さんの中で最期の時間を過ごすお手伝いができて我々も光栄です。