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2010年8月8日

在宅介護と自助自立の精神

「長生きの意義を考えるとき②」のコメントにパウルママさんが
「私たち子供達にとって 自慢の両親です」と書いて下さっているのをみて思ったことがあります。
それは、たとえ寝たきりであっても手足が麻痺して固まっていて全然喋れなくても、あるいは治る見込みのない病であっても、在宅で介護している家族にとって患者さんはみんな「大切な家族」だということです。 最近訪問診療に伺うようになった患者さんに、90歳のALSの方があります。手足が動かなくなってベッドの上で寝たきりで、呼吸筋の働きもだいぶ弱くなって来つつありますが頭はしっかりしておられ、普通に話をされます。そして自分の意思で人工呼吸器はつけないと決められています。認知症のある奥さんを助けるため、近所に嫁いだ娘さんが毎日のように通ってこられていますが、先日もお話しする中で、また娘さんが話しかけるのをみていて、本当に大事にされているなぁと感じました。

去年松山で訪問していた70代後半の寝たきり患者さんの家で、50歳くらいの娘さんが「私が小さい頃は優しくて一度も怒られたことがなくて、ほんとにいいお父さんでした。今こんな状態になって(脳出血後遺症で寝たきり、気管切開あり喋れず、胃瘻あり、股関節は拘縮)私がしっかり看てあげないと、と思うんです。」とよく話しておられたのを思い出します。

病院、それも療養病床など 寝たきりの高齢者ばかりが入っているような病棟だったりすると、診ている医師の側もどちらかというとモチベーションが下がるというか、ついこのことを忘れてしまいがちになってしまいます。もはや「治療」の対象とはならず、療養・介護のために病院で寝たきりになっている患者さんに医学的興味はほとんど持てないからです。病院とは診断や治療を中心として行うところですから、それらの必要がなく療養や介護だけになると病院の医者にできることはあまりありませんし、御家族の顔があまり見えないのでその思いを感じる機会が少ないというのも1つにはあるのかもしれません。そのむかし卒後数年目くらいの頃、アルバイトでいわゆる”老人病院”と呼ばれるようなところへ行ったとき、「その他大勢の生ける屍」みたいな感じで大部屋に並んでいるお年寄りを見る機会が多くありました。介護を放棄して病院に入れっぱなしで長らく面会にも来ない家族が、いよいよ亡くなりそうだという段になって「意識がなくても何でも良いから長生きさせて欲しい」と電話で言われ、どうやらその裏には年金を打ち切られたくないという事情があるという話をきいたりして、最近問題になっている100歳以上の高齢者の行方不明ではないですが、複雑な気分になったことがあります。しかし少なくとも在宅療養されて家族が熱心に介護されている方の場合は、大事な家族を人任せにせず大変な介護の労を自分でされています。診療に伺って患者さん本人のことを家族の方からいろいろ聞いていると、これまで家族のために働いてくれた親だからきちんとみてあげたい、という思いが伝わってくることがよくあります。

義務を果たさず権利ばかり主張するような、自分では何もしないで何でもかんでも人任せにして権利ばかり主張する人達が増えてしまったような昨今の風潮の中にあって、在宅介護されている家族の方達は自助自立の精神を実践されている人達だと思います。そういう方々を少しでも医療の面からお手伝いできたら、と思っています。 在宅医の仕事や在宅医療は、治療という点では医学的興味はないかもしれませんが、いろんな職種の人達と協力しながらいかに良い状態で自宅療養してもらえるかを考えその環境を作ってゆく、という点で病院医療とは方向性が幾分(というかだいぶ)異なります。終末期医療においても同様に、治療できず亡くなることが避けられない患者さんであっても、少しでも良い時間を持ってもらえて、最後に本人や家族の方が「満足」を得られるようにするのが目標ではないかと思います。そして家族にとってのその満足感は、病院でただ付き添ってみているだけよりも 自助自立の精神で主体的に在宅介護されている場合の方が圧倒的に大きいのではないかと感じます。

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COMMENT: AUTHOR: しんちゃん   「その他大勢の生ける屍」みたいな感じで大部屋に並んでいるお年寄り数ヶ月前、療養病床のある病院に見学に行きました。そこも確かにそういう感じでした。(・ω・`)最近、「寝たきりでも、眠っている間はいい夢を見て、外にお出かけしたり。嚥下障害で食べれなくても眠っている間は食べたいものを食べる夢を見てほしい」と言っているのを聞きました。そういう言葉を聞くと、寝たきり状態の意義について、考えさせられてしまいます。