山陽新聞夕刊コラム「一日一題」への連載、・・・全 8回中の第7回目の内容です。
これは 約1年前、2013年1月20日にこのブログに書いた話を書き直したものです。
保さんが自宅で亡くなって往診したとき、奥さんが数日前の出来事を話してくれた。
「近所にいる2人の小学生の孫娘がいつも喧嘩するたび”死ね”とか平気で言うんです。日頃からやめなさいと怒っても聞かないのでここへ連れてきて、あんたたち、死ね死ね言うとるけど人が死ぬのがどういうことか、おじいちゃんをよく見ておきなさい!といって叱ったんです。上の子は言われた事がわかったようでした。下の子もわかったとは言っていたけれど・・・うーん、どうかなぁ・・・」。
これは祖母にしか言えない言葉だ。
昔は老衰や治らない病を自宅で看取る介護力も経験も家族に備わっていたのだが、いつからか治療という名のもとに、患者と共に自宅を離れて病院に預けられてしまった。家族構成も次第に変化して、一家の中で人の死ぬ瞬間を見たことのある大人が減る一方で、死は日常の身近な出来事からテレビドラマの中でしか見ることのない観念的なものに変わった。子供達はゲームのキャラクターが死んだらリセットしてしまう。
患者さんが自宅で療養して最期を迎えた時、家族、時には孫達が訪問看護師と一緒に体を拭いたり着物に着替えさせてあげたりといった最後の孝行をしている光景を目にする。子供達は死という人間にとって不可避の現実を祖父母を通して知り、そこから命の大切さを学ぶはずである。子供達が皆このような体験をすれば命を軽視した社会問題もかなり減るだろう。懸命に体を拭いてあげている子供達の姿をみるたび「あなたの最後の教育、伝わっていますよ」と御遺体に語りかけたくなる。