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2010年1月24日

在宅医療は人生のドラマに触れることができる・・・(長文注意)

死の中の笑み
89歳のCさん(男)の家は、松山市の外れも外れ、今治市との境に近い山の中にあった。
5月に喀血があり市内の総合病院で検査を受けた結果、Stage3Bの進行肺癌と診断された。高齢であることから手術や化学療法は望まず、できる限り自宅で療養させたいという家族の希望があって、7月から訪問診療が始まっていた。
初診から2回目か3回目の定期診療で僕が訪問した時には、なんとこんな山の中でも松山市かいな、と驚いたほど山のまた山奥、車でおよそ30分近く走った山の谷間から坂を上がったところに家があって、何度も道を間違えてたどり着いた。

それまで食事がほとんど食べられなくなっていたところ、初診でM先生が処方したステロイドの効果がでてきたのか、”だいぶ食欲が出て元気になった”と喜んでいたCさんと60代の息子さんの表情が印象に残った。
山間の古い農家の家の中は、いい感じの”和”の空間が醸し出されていて、そこにCさん本人と奥さんが住み、同じ敷地内に隣あってCさんの妹、長男夫婦と孫夫婦、ひ孫2人、Cさんの長女が住むという、10人の大所帯の家族。納屋には農機具がたくさんあって、聞けば孫夫婦まで一家で果物類の栽培を中心とした農業をされているという。
いつもは家にいるという奥さんが診療中にはいなかったのでどうしたのかなと思っていたら、帰ろうとして車に乗り込んだところで遙か坂道の下の方から電動車に乗って坂を上って来られた。聞けば”ちょっと下の店まで”行って、アイスクリームを我々のために買ってきてくれたのだという。丁重にお礼を言って、モナカのアイスクリーム2つをありがたく頂いた。帰りの道すがら”ちょっと下の店”がどこかと思って見ていたら、あったあった、400~500メートルも坂を下ったところに小さな田舎の店屋が。店の近くから北の方をみると遙か下の方に瀬戸内海までが見える。わざわざ出かけてアイスクリームを買ってきてもてなしてくれた奥さんの厚意に感激して、アイスをかじり運転していた。それが7月の暑い頃。
それからしばらくは小康状態を保っていたようだったがやはり癌は進行し、9月に入ってCさんの状態が悪化してきていることはカンファレンスの話題に上る頻度が増えてきたことからも伺い知ることができた。
2日前の日曜には、38度の熱があってしんどそうだということで往診依頼があり、当番のM先生が往診。酸素飽和度が一時81%まで低下し、酸素を3Lに上げてやっと90%に上がっていた。食事量も減り、水分やオキシコンチンを含む内服薬は何とか飲めている状態だった。
“訪問時はアイスクリーム摂取中”とカルテに記載があったが、あとで聞くとM先生が訪問したときちょうどCさんのベッドの周りで家族みんながアイスクリームを”摂取中”だったらしく、ほのぼの~ ♪ とした感じの中に入っていって雰囲気を変えてしまうのが憚られるほどだったという。そうか。あの日のアイスクリームのもてなしは、家族みんなで集いながらアイスクリームを食べるという一家の習慣の延長上にあったのだとわかった。
そしてその次の火曜日。訪問看護でCさん宅に行っていた看護師のTさんから、いよいよ血圧が下がって呼吸も悪化しているとの連絡がクリニックに入り、午前中の診療件数に余裕のあった僕が行くことになった。 見覚えのある山道を延々車を飛ばし、アイスクリームの店の横を通って坂を上がりCさん宅へ着いた。
ベッドの置かれていた部屋へ行ってみると、Cさんは既に20分ほど前に息を引き取った後だった。家族がみんな集まって、体を拭いてあげているところだった。
先に行っていた看護師のTさんに、亡くなるときの状況を聞いた。
Cさんの下顎呼吸がいよいよ浅くなってきたとき、Tさんは耳に当てていた聴診器をはずして傍にいた小学校1年のひ孫に聞いた。
「ボク、ひい爺ちゃんの心臓の音、聞いてみる?」
「ウン・・・・・・音がしてる・・・」「そう。まだ動いてるよ。」
・・・・
そして呼吸が止まり、いよいよ心臓の鼓動がとまったのを確認したあと、彼女は再び曾孫の耳に聴診器を与えた。
「全然聞こえないょ・・・・・」 
「そう。ひい爺ちゃん、亡くなったんよ。ボクの心臓の音はどう?自分の胸にあててごらん・・・」
「あ・・・よかった、聞こえる。」
「よかったねー。さあ、ひい爺ちゃんの体、まだ温かいよ。みんなで一緒に体拭いてあげようか・・・」
僕が到着したのはそのあとのこと。
「患者さんが亡くなる瞬間に医者は必要ない」と院内でよく言われるが、亡くなったCさんの清拭をしている家族をみていて改めてそのことを実感した。
すべてが自然だった。
食事量が減ってきても点滴をはじめ濃厚な治療をすることなく、痛みだけはモルヒネ製剤を使いながらコントロールして、最後は枯れるようにしてすーっと亡くなった。長年暮らしてきた山の中の家の自分の部屋で、普段着のまま集まった家族に看取られた最期だった。
悪い足を引きずるようにして杖をついてやってきたCさんの妹が遺体の傍に座り、「この歳まで、よう生きた。・・・」とCさんの生をねぎらうように言った。
大人が清拭をしているその脇では、もう飽きてしまった1年生と3年生の曾孫がじゃれ合って笑いながら遊び、時折親が「静かにしなさい」と叱っている。
2人の曾孫にとっては曾祖父の死の意味はまだよくわかっていないのかもしれないが、死とはどういうことかがCさんを通して漠然とわかったに違いない。Cさんは自身の死を子供達に見せることで、何物にも代え難いDeath Education~死の教育~を残したのだろう。
当たり前のような日常の中に、当たり前のように死がある。
死は悲しいことだけれど、生ある限り当然のこととして死を受け容れる家族があり、涙の中にも子供達の笑い声やねぎらいの言葉がある。
そのとき僕は、学生の頃読んだ徳永進先生の「死の中の笑み」という本のタイトルを思い出していた。そして、床の間のある隣の部屋で、4つ脚のついた箱みたいな形の立派な碁盤の上から、長年Cさんが使っていたのであろう白と黒の碁石の詰まった重い木製の容器を2つ畳の上に動かして、碁盤を机がわりにして死亡診断書を書いた。
帰るときにはお孫さんが、出荷用の化粧箱に入れたきれいなピオーネのブドウを1箱お礼にと持たせてくれた。
自然の中の家に住み、農作物の栽培・・・種まきから芽が出て大きくなり、実を結んでやがて枯れてゆくという、自然のサイクル・・・を営みながら生活してきたなかで、死すらも自然な事として受けとめるCさん一家の死生観のようなものが形作られたのではないか、と思った。